那覇のビジネス街 国際通りの入り口、県庁前の通りから松山公園方向へ 10分ほど歩くと左手に、なにやら異国を思わせる白い壁が見えます。
那覇市は、中国との交易の玄関口だったこともあって、この福州園は1992年、那覇市と中国福建省福州市の友好都市締結10周年記念事業として、福州市産の資材を用い福州地方の名勝をイメージして造られたとか。
園内には川や池に滝、そして橋や塔に六角形の東屋が、さらに中国語のガイダンスも流れ、そこに広がる世界はまさに中国そのもの、沖縄らしいものは何一つ無い!!。
正門を入ると先ず行く手を遮るツイタテがある。 このツイタテは、中国独特の建築様式のひとつのようで沖縄では「ひんぷん」と呼んでいる。
沖縄独特の家やお墓(亀甲墓)にも、そして、今春訪れたインドネシアの豪農?でも目にした。
敵の攻撃から身を守るためのものとか、魔物はまっすぐにしか進めないので家を魔物から守る魔除け とかのようです。
園内は急いで回れば30分?、2時間程のんびりと十二支を眺めてきました。
(上3段12枚...十二支、 下から2段目右から2枚目...福州園入口の狛犬)
干支の話
「サル年生まれの人は手癖が悪い」 「ヘビ年の人は執念深い」など、干支を日常的?な話題にしている。 また、その年の干支をデザインした年賀状も多く目にします。
十二支の「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」は、約12年で天を一周する木星の年ごとの位置を示す古代中国の天文学での数詞で、動物とは何の関係もないものでした。
(正確には11.86年で一周するそうです。)
動物名十二支は、その抽象的な数詞を覚えやすく馴染み深い動物に替えたものと言われており、日本には仏教の伝来と同じ頃に伝わり、江戸時代には日本人の生活に浸透定着したようです。
干支は、十二支と十干の組み合わせで、「干」 は十干から、「支」 は十二支から来ているとか。十二支はいま動物の名前で呼ばれていますが、もともとは植物の成長過程を12段階で表したもので、上記「子・丑・寅・・・・・」の12個の記号です。
そして、十干は「甲・乙・丙・丁・戌・巳・庚・辛・壬・癸」の10個の記号です。
この「十干」と「十二支」は、それぞれ独自の周期をもつ年の数え方ですが、この二つを組み合わせて60年かけて一周する年を表し、時刻や方角を示すときにも用いられてきました。
たとえば、61歳を"還暦"と言いますが、これは 60年で一回りの暦が終わり、再び暦の頭に還ったことを意味しています。
そして、真夜中の 2時ごろを講談・お化け屋敷では 「草木も眠る丑三つ時」 なんて言っていました。
正式な十二支 便宜上の十二支 干支の特徴
子(シ) 鼠(ね) 子孫繁栄 、行動力と財
丑(チュウ) 牛(うし) 粘り強さと誠実
寅(イン) 虎(とら) 決断力と才知
卯(ボウ) 兎(う) 温厚で従順
辰(シン) 竜(たつ) 伝説の生き物、正義感と信用
巳(シ) 蛇(み) 執念深い、究心と情熱
午(ゴ) 馬(うま) 陽気で派手好き
未(ビ) 羊(ひつじ) 穏やかで人情に厚い
申(シン) 猿(さる) 器用で臨機応変
酉(ユウ) 鶏(とり) 親切で世話好き
戌(ジュツ) 犬(いぬ) 勤勉で努力家
亥(ガイ) 猪(い) 勇気と冒険
沖縄戦
沖 縄:太平洋戦争末期、米軍と日本軍が国内唯一住民を巻き込み地上戦を行なった街です。 1945年4月1日、米軍が本島読谷村に上陸、米軍1万2000、日本軍9万、そして強制連行された近隣諸国を含む民間人10万の死者を出し同年7月2日作戦が終了した。
この街には公私合わせて 5回ほど訪れた。 「ひめゆりの塔」 「平和記念公園」 「首里城」など観光バスで訪れたが消化不良?、後日改めて那覇バスターミナルから路線バスを乗り継いで観に行った。
(下段の右端とその上...ひめゆりの塔、 下段の左3枚...平和記念公園)
どちらの資料館にも、凄惨を極めた沖縄戦の悲劇が展示されている。
生き残った住民達の一語一語絞り出された体験証言を読んでいたとき、そして、射殺された女性と米兵を撮った写真の前に立ったとき、同じ人間が .....表現できない怒りと深い悲しみを覚えた。
蒼く澄み渡る太平洋を見渡す丘に、波のうねりのように建てられた「平和の礎」には、沖縄で散っていった戦没者の名が、和・韓・英の文字で刻まれている。
刻銘者数は5か国24万人超!!...........何を感じとれば良いのだろう。
終戦記念日の今日、小泉首相は靖国神社を参拝した。
旧日本軍が侵攻した近隣諸国から、そして心ある国民からの反対を無視しての強行突破?である。
参拝は個人の 「心の問題」 と称し、多くの国民が理解出来る説明を何もしていない。
戦争を体験した世代は言う 「今はあの時と似てきた」 と.....
.........困ったもんだ。 |